日本の化粧の歴史

化粧の歴史

多くの女性にとって、化粧は毎日の生活に欠かせないものでしょう。

では、いつ頃から日本人女性は化粧をすることになったのでしょうか?

このページでは、化粧の起源から現代に至るまで、日本女性を惹きつけてきた化粧の歴史をまとめて紹介します。

化粧の始まりは魔除け目的だった

日本人はいつ頃から化粧をするようになったのでしょうか。

西暦200年代の古墳時代のお墓から、赤い顔料で化粧をされた埴輪が出土されています。

赤色を顔に塗ることが当時の風習だったようで、これが日本における化粧の始まりと言えるでしょう。

赤は悪魔の侵入を防ぐ色とされ、当時の化粧は魔除けの意味合いだったと思われますので、美しく見せる現在の化粧とは異質なものでした。

美しく見せる化粧が始まった飛鳥時代

西暦500年代、仏教が伝来するとともに、大陸から紅や白粉といった化粧品や化粧方法も伝えられました。

それまでの魔除けであった化粧から、現在の化粧に通じる美しく見せるための化粧となった転換期が飛鳥時代だったのです。

宮廷では顔に白粉を塗り、本来の眉毛を抜いて眉墨で細長く描いた眉、紅をポイントメイクとして使っていたようです。

女帝持統天皇は白粉を献上されて喜んだ、と日本書紀にあります。

日本の化粧の手本は唐(中国)

奈良時代、宮廷の女性は白粉を塗り、紅でふっくらした唇と太い眉を描き、額と口元に鮮やかな色で花や星を描いていました。

これは、当時の宮廷の生活様式が先進国であった唐(中国)の影響を強く受けていたことに由来していて、化粧の仕方も唐の華やかな化粧方法をそのまま取り入れていたようです。

日本独自の化粧の始まり

西暦800年代後半、遣唐使が廃止されると、唐の影響が大きかった日本の化粧方法にも変化が表れ始めました。

中国の真似ではなく日本独自の風習・習慣が芽生えてきました。

源氏物語絵巻には、長い黒髪、白塗り、眉毛を抜いて額上部に描いた眉、小ささを強調するため下唇だけに紅を差す化粧をした女性が描かれています。

貴族から武家に化粧が伝わった鎌倉時代

日本における化粧とは、貴族たち特権階級の文化の一つでした。

鎌倉時代になり、権力が貴族から武士へと移り変るとともに、化粧も宮廷文化に憧れる武家階級の女性たちに引き継がれていきました。

このころになって、ようやく一般庶民の女性たちにも徐々に化粧が伝わり始めたと言われています。

白粉は薄塗りになったようですが、眉、紅はそのまま受け継がれました。

武士も化粧をしていた戦国時代

西暦1300年代、戦国時代になると武士たちが化粧をするという風習が生まれました。

これは、敵に首を取られた後も醜くないように、という考え方から生まれたようで、女性の化粧と同様に眉墨、白粉を使った化粧でした。

なかには、口紅をつける武士もいたと言われています。

化粧文化が花開いた江戸時代

貴族階級から武士階級へと伝えられた化粧ですが、江戸時代になると町人にも化粧は一般的なものとなってきました。

化粧の仕方にも変化が表れ、白粉を胸元まで塗るのが一般的になり、かなり濃い目の化粧が流行ったようです。

これは歌舞伎役者の化粧が影響していたと考えられています。

また、遊女の最高位でもある「花魁」の化粧も、一般庶民の女性たちが憧れ、真似をする対象でした。

文明開化が現代の化粧の幕開け

明治時代になると、それまでの化粧方法が大きく変わる出来事がありました。

眉剃り・お歯黒の廃止です。

眉剃りは女性が結婚して子供が生まれると眉を剃り落とすという化粧法だったのですが、政府は貴族階級の女性に対し、伝統的な眉剃りの廃止を求めたのです。

眉剃りの廃止は、日本女性の美意識を大きく変える出来事でした。

現代の化粧の幕開けと言えるでしょう。

色つき白粉が発売された明治時代

明治時代中期なると、新聞や雑誌などによる化粧品広告が目立つようになり始めました。

化粧水が大流行したのも、クリームが輸入されるようになったのも明治の中頃です。

明治時代に起こった、大きな出来事といえば、色つきの白粉が発売されたことでしょう。

それまでは白一色だけだった白粉でしたが、色つきの白粉が発売されたことにより、自分の肌色に合った白粉を選ぶことができるようになったのです。

これは、日本の化粧の歴史上画期的な出来事でした。

この頃には化粧は一般化し、化粧品産業の基礎も固まりました。